由良には、古くから語り継がれてきた悲話に、晦日なぐれという海難物語りがあります。
むかし、天明の頃に、由良の浦には七そうの鱈釣舟がありました。その船は、一そうに若者六人づつが乗っり組み、艪で漕ぎ茣蓙でつくった帆をかけてはしる船でした。
天明八年十二月三十日の朝早く(今の午前二時頃)、天気はよく空には星までまたたき、全く申し分のない上凪のなかを、六人づつ乗り組んだ鱈釣船は、
「正月前だぞ…。」
と船頭をはじめ若者たち一同、勇みに勇んで元気よく由良の浦から舳先を揃えて漕ぎ出しました。
やがて鱈場に着き、釣り縄を海中におろして朝飯を食べる者、また力を合わせて釣り縄を引きあげる者など、みなそれぞれの持ち場にたって、懸命に仕事をはじめました。
ところが、冬の空は変わり易く、にわかに風が強くなり、浪も次第に高まって、あれまじりの荒れ模様になったと思う間もなく、恐しい猛吹雪となってしまいました。
舳先を襲う怒濤は、さながら天馬の荒れ狂うさまに似て、中天を駆ける強風は、帆柱を吹き飛ばし、それはそれは、すさまじい大時化となりました。
船頭をはじめ若者たちは、神仏の加護を唱えながら必死になって艪を漕いだが、風雪はますます激しさを加えて、天日も暗く、方向もわかたぬ暴風雪となってしまいました。
その日、肉身の安否を気づかい、大時化の磯辺に立ちつくす家族の前に流れ着た船は僅かに三そう、しかもその船底には、凍えて死んだ若者たちの悲しい屍があり、ついに帰らぬ四そうの船の人びとと合せて、三十二人の若者が、一しゅんの間に由良の浦から姿を消してしまいました。
からくも生き残った十名の人びとは、
「自分たちは、こんご生涯鱈釣りはしません。」と神に誓い、鱈釣りの縄の鈎と錘を全部切りはずして一個のまとめ、これを白山大神の神殿の床下の土を掘って納めたのです。
そしてまた、その人びとは沖で遭難中に神に誓った断ちもの、
一、あい(染物用の植物)を植えないこと。
二、女郎を出さないこと。
三、鶏を飼わないこと。
を更に神前で誓い合ったということです。
(注)晦日なぐれとは、晦日に大ぜいの人びとが遭難死した、悲しいできごとという意味と思われる。断ちものとは、神仏に祈願するにあたって、おのれの真心を誓い明かすための、神仏への約束ごと。
その当時の白山大神の神殿は、三尺に四尺位の奥殿一棟しかなかったものらしい。
この晦日なぐれに被難した戸数は、三十一戸といわれる。
そのご、寛政五年旧十月十七日も、大きな海難事故があり死亡二十五人、被難戸数十三戸といわれている。
(寄稿 和田九郎治)