三瀬にはいつの頃から人が住んだのであろうか。
 下降矢の御林遺跡から旧石器文化(1万2千~3千年前)を伝える打製石器3点土出しており、それ以前から人が住んでいたことが理解される。その頃が三瀬の黎明期であると思われます。
 さらに御林遺跡・浦田旗本台遺跡・宮の前遺跡からは、縄文文化(紀元前1万年~紀元前300年)を伝える石鏃・石斧・石匙・石べら・砥石等が多数土出しております。どの遺跡も南向きで川に近く海を眺望できる場所であり、木の実・山菜に摂取・鳥獣の狩猟と川に上がってくる鮭など豊かな食糧に恵まれていました。住居は竪穴住居でありました。(中山西向遺跡)
 弥生文化(紀元前300年~紀元後300年)になると、稲作文化が入って来ており、石器に加えて土器・金属器も作られ、より高度な生活ができるようになりました。古墳文化(4世紀~6世紀)を示す墳墓跡が3ヶ所で発見され、装飾品である匂玉も土出しています。

 出羽の国を設立するために、和銅元年(708)から養老3年(719)にかけて、大量の移植民が行われております。
  ・和銅元年(708)200戸 尾張・上野・信濃・越後
  ・霊亀2年(716)400戸 信濃・上野・越前・越後
  ・養老3年(719)200戸 東海道・東山道・北陸道
 これにて出羽国が成立しますが、承和2年(840)年の人口が20,668人であったことと比較すれば、いかに大量の移植民であったかが解ります。

 氣比大権現の勧請については、さまざまな説があります。

 第1説
 霊亀2年(716)越前国の人々が敦賀の氣比神宮から勧請したとする説ですが、年代的にも、史実のうえからも無理があります。
 おそらく霊亀2年に越前国から大量移民があったことに結び付けたと思われます。
 第2説
 丹後国の真名井の人々が勧請したとの説でありますが、真名井を地名とばかり思って辞書・電話帳・郵便番号表等をいくら調べても出て来ないので、前田光彦先生に聞きに行きました。先生は「日本歴史地名大会」京都府編を持ち出して、これに載っていると言うので見たら、地名ではなく清水の湧出る井(池)でした。
 現在の京都府中郡峰山町字五箇の磯砂山の一つ比治山の頂にあった井(泉)だったのです。丹後風土記に次のように記されております。「丹後国丹波の郡。郡家の西北の隣の方に比治の里あり。この里の比治山の頂に井あり。其の名を真名井と云う。今は既に沼となり。比の井に天女八人舞降りて編み水浴みき。」
 真名井と気比神社のお池様と似ているし、八人の天女の水浴みと八乙女伝承と似ているし、しかも近くを由良川が流れており、その出口に由良(現宮津市)があることから結び付けたと思われます。
 第3説
 石塚氏一族が勧請したと言うものであるが、この説が最も史実に合っているし、事実であると思っています。石塚氏の祖は中臣氏であり、同氏は天児屋根命の子孫であるとし中臣連・中臣朝臣となり、朝廷の祭祝を司る名家であり大伴連・物部連・蘇我連と並び対等でありました。
 特に中臣鎌足は、大化改新時(645年)に、中大兄皇子と組んで皇極天皇の面前で蘇我入鹿を切殺しており、その功により藤原の姓を賜り、その祖となっています。
 中臣氏は伊勢外宮の大宮司に任ぜられていましたが、宝亀7年(776)、中臣雄継の代に気比神宮の大宮司に転ぜられております。
 その後、御醍醐天皇と足利尊氏との確執から南北朝時代に入ると、中臣氏は南朝方となって、恒良親皇・護良親王を奉じ、新田義貞と共に越前金ヶ崎域を拠点にして北朝方と戦ったが、足利氏の武将高師泰に敗れ、気比神宮は灰塵に帰した。
 時に廷元2年(1337)中臣氏は、河端氏・石塚氏・石倉氏・平松氏・島氏・宮内氏に分かれて離散した。
 その時、石塚氏一族の主流は北陸路を北に向い、出羽国田川郡三瀬に落居した。
 その数年後に気比大権現を勧請したものと思われる。
 三瀬に落居してからも南朝方として活躍し廷文元年(1356)藤縞城の戦で、石塚宗信が討死します。
 応仁の乱(1467~1477)のときは、大宝寺城の武藤氏に石塚宮司家の分家の中村宗武が仕え活躍しています。
 天文2年(1533)には、中村忠武が砂越氏との戦いで討死している。
 元亀元年(1570)には、中村武秀が武藤義氏に従い土佐林氏を亡ぼし功名をあげた。
 その頃武藤氏の武将高坂時次と菅沢氏光が気比大権現の本殿・長床の再建用水を寄進し、天正2年(1574)には義氏が神田三千刈を寄進している。これらのことは、石塚氏一族の武功がもたらしたものと思います。
 中村氏は石塚氏の分家でありながら、石塚を名のらず、なぜ中村を名のったのかについて、前田先生と話し合った結果、当時中村に居を構えていたためだろうということで一致した。
 楯の山に館があったが鈴木・加藤・斉藤3氏は、館の城主武藤氏の武将(名は不詳)の家臣団であると郷土史家達の一致した見解あります。日常は百姓をしながらいざ戦いが始まると、刀・槍・弓矢を持って楯の山に駈け上がったものと思われます。
 元亀元年(1570)越前国に残っていた石塚資久は佐々成政と共に領主朝倉義景に味方して織田軍と戦い、姉川の合戦で敗れます。資久は先祖からの言伝えで同族の石塚氏が出羽国田川郡三瀬で気比大権現の宮司をしていると知ったので、三瀬を訪れている。その後慶長7年(1612)最上少将義光が黒印35石を安堵し、宝永4年(1707)には7代藩主酒井忠真の寄進により、本殿・拝殿を再建しています。

(2004.11.04.三瀬グリーンツーリズム研究会主催 第1回まち講座 資料)
著作:三瀬文化財愛護会 会長 佐藤重夫